“光陰矢の如し”という諺があります。その教えの通り、あっという間に師走を迎えました。この一年は、元旦に能登地方を震源とする地震が発生し、家屋の倒壊、火災の発生や津波により多くの尊い命が失われました。二日には羽田空港で日航機と海保機が衝突、炎上する事故が起き、ショッキングな幕開けとなりました。私たちの身近なところでは7月の豪雨により、県道大社日御碕線が崩落し、日御碕地区の集落が孤立することになりました。この災害に対し、記録的な猛暑の中、発災翌日から全社をあげて復旧対応に取り組んでいただきました。
決してネガティブなことばかりではなく、特にスポーツ界では明るい話題が多い1年でありました。7~8月のパリオリンピック・パラリンピックでは、日本人選手の感動的なシーンを多く目にすることができました。お家芸といわれる競技だけではなく、新しい競技で若い選手たちが躍動し、海外開催のオリンピックでは最多のメダルを獲得しました。また、大リーグ・ドジャースの大谷選手の凄すぎる活躍は、感動とか驚愕といったありきたりの言葉では表せないほどのパフォーマンスを続けてくれました。私にとってオリンピック、大谷選手を超えてインパクトがあったのは、大社高校の甲子園での躍進です。決して派手さや凄さはない選手がひた向きに戦い、それを応援するアルプスの応援団、地域が一体となって甲子園の常連校に対し次々とジャイアントキリングを果たしました。夕暮れのアルプス席で校歌を歌うことができたのは生涯忘れられない思い出となりました。
先日、大社高校野球部を率いた石飛文太監督と話をする機会に恵まれました。笑顔溢れる明るい表情で監督になってからのエピソードや甲子園での戦いについて語ってくれました。彼の話で最も印象に残ったのが、監督に就任してからの5年間の葛藤です。監督に就任した年は、兎に角厳しく、笑顔を見せない、選手の話は一切聞かない姿を貫いたということです。その結果は、県大会準優勝を果たしたものの、目標である甲子園出場を逃したということです。その翌年は甲子園出場を目指し、さらに厳しく選手と接したそうです。その結果は初戦敗退というまさかの結果だったということです。3年目はさらに厳しくしたものの、選手が誰一人としてついて来ないというチーム崩壊の危機に陥ったということです。4年目にはどうして良いか分からず開き直り、自分自身を変えてみようと考え、明るく笑顔の監督に変化し、選手の意見を聞くようにしたということです。その結果、チームのコミュニケーションが良くなり、選手達が積極的に取り組むようになり、今回の結果につながったことを数々のエピソードを交えて話してくれました。
石飛監督の話から、改めてコミュニケーションを良くすることの大切さを感じました。これから年末、年度末の繁忙を極める時期を迎えます。今、私たちに最も必要なのは“笑う門には福来る”ということです。それはお互いを尊重、リスペクトすることで、そのことにより組織内のコミュニケ―ショッンが向上し、すべてが好転することに繋がると確信しています。
先ずは私から、そして部長、次長、課長から実践しこの年を有終の美で飾ります。
和田晶夫